日本博オープニングセレモニーをみた!
日本博オープニングセレモニーをみたよ!
日本博は、ざっくりいうと、オリンピックの開催に合わせて文化事業も盛り上げていこうぜ!という企画で、オープニングセレモニーは日本博の開催を記念して、日本の数多の伝統芸能を一挙に鑑賞できるというスペシャルメドレーのことだよ!三月半ばにトーハク平成館の特設ステージで開催予定だったけど、疫禍で開催できなくなり、でも、映像に納めてくれていて昨日テレビ放送、今はTVerで鑑賞できる。(7/19まで)
日本博は、今まで伝統芸能を詳しく知らなかった人たちを強く歓迎してくれている。わたしは伝統芸能に興味がありながらビビって足をあまり運べていないタチなので、これを機会に飛びついてみた!(現地開催ができれいれば足を運ぶつもりだったくらいに)
伝統芸能にちょっとでも興味のある方は是非みてね!日本博オープニングセレモニーは、それぞれのエッセンスを見せてくれる、そして映像中で能の方がおっしゃっていたが、「すきなところ」を見つけて楽しむことができる。それがどんなニッチなところでも。実際わたしは意外なところがツボにハマったりして驚いた。
さあて、ここからは詳しくわたしの「すきなところ」を書き殴って行こうと思う。伝統芸能素人が書いているので、詳細に間違いがある可能性が高いことをご了承のうえ、よろしくどうぞ!順不同だよ!(ここからはいわゆるネタバレになるので、先に鑑賞をしようと思い立った方は鑑賞が終わってから読んでくれたら嬉しい、そしてよかったところを語り合おうよ!)
まず、わたしが1番すきだ!と思ったのは、
🍡文楽「団子売(だんごうり)」
文楽は、人形と語り(太夫)と三味線の3つが合わさって物語を紡いでいく技法で、今回の演目は団子売の夫婦が楽しく踊っていた。愉快で可愛らしい踊りを楽しくみていたその時、わたしは、ご婦人〜お杵さんという〜の可愛らしさにひとめぼれしてしまったのだ!
まずなんと言っても、あのふくふくとしたお顔!お餅がそのまま擬人化したらあんな風になるんじゃないかと思うような、頬をぷくーと常に膨らませているようで、かつ機嫌のいい赤ちゃんのように穏やかに微笑んでいる。あんなチャーミングなお顔を伝統芸能で観られるとは知らなかった。
次にお杵さんの踊り!身近な例で言うと「盆踊り」に近いのかなあ、手を上げて下ろして、ひとつひとつの動きがるんるんと陽気に踊っていることを感じさせられて、観ている私たちも楽しくなってくる。
そして、亭主は先に踊り終わってうちわをパタパタしながらお杵さんを眺めている。その空間の空気感というのが、現代のカップルたちにも通じると思う。こころがほっこりする和やかタイムで、ずっとニコニコしてみていた。
また何度でもお杵さんを眺めに行きたい、そう感じた演目だった。人形遣いさん、太夫さん、三味線さん、はもちろん、お人形のお顔を作っている方の技術の高さに感服した。お杵さんのお顔と踊りがほんとうに可愛いくてわたしの言葉では表しきれないので是非その目で確認してほしい✨
次にお伝えするのは、
🗣声明「散華(さんげ)」
これ、「しょうみょう」と読む。伝統芸能は詳しくなくともなぁんとなく名前くらいは聞いたことがあるけれど、声明は「こんな伝統芸能があるんだ!」というところからのスタートだった。声明とは、仏典に節をつけた仏教音楽のひとつだという。
始まってまず目をひいたのは、その姿。お坊さん(僧侶の方々)が7.8人ぞろぞろ並んで入場なさったんだけど、まず、僧侶の行列というのをあんまり見ない私にとっては、それは厳かな雰囲気の漂う印象的な姿だった。鎌倉時代や桃山時代の絵巻物に描かれる僧侶の行列を思い出した。次に彼らの着ていらっしゃる装束が、袈裟、であっているかな、なんにしてもその重ねた黒色の重厚なこと。そして紡がれる声(歌?)音楽の重厚なこと。
声明は宗教のものだろうから、これからまた劇場などに行って鑑賞できるものであるかも知らないけれど、あの、波の押しては引くような音色の鑑賞をまたしてみたいと思った。
さて、次は楽器の演奏をまとめて眺めてみる。(琉球古典音楽は別の見出しを作るのであとで)
❄️笙「盤渉調調子(ばんしきちょうちょうし)」
❄️胡弓「雪(ゆき)」
🌕尺八「寒月(かんげつ)」
🌕篠笛「月」
4種の楽器はそれぞれソロの演奏で、ここまで伝統楽器の音色にひとつひとつにしっかりと耳を傾けたのは初めての経験だったから、音の柔らかさややんちゃさを様々感じたなあ。
それぞれの楽器をざっくり言うと、
笙は木管楽器で、17本の細い竹管が並べられて、音が変えられる穴が開けられている。
胡弓は弦楽器、持ち方はチェロに似ているけれど見た目は三味線に似ているのかな?たくさんの細い毛でできたみたいな弓で演奏する。
尺八は木管楽器で、竹に穴が開いていて、リコーダーを大きくしたような形をしている。
篠笛も木管楽器、竹に穴を開けた横笛、形はフルートに近いように見える。
胡弓の除く三楽器はどれも竹で作られた木管楽器楽器で、例えば尺八の奏者の方は竹一本一本によって音色が違うので自分で竹を選んで尺八づくりをしているようで、金管楽器のように楽器をどれも同じ形にして正確な音を求めるのでなく、自然natureに音色を任せることがおもしろいなあと思う。
笙は息を吸っても吐いても音が鳴る、ことが音色からもわかった。日本語は句点(。)を使わず延々と読点(、)だけを並べて話を続けることができる。そのなめらかさ、続いていく感じは、笙の音と同質性があると思うなあ。ずっと聴いていられる。
比較すると篠笛は、音の一つ一つをしっかりと感じた覚えがある。ひとつひとつ音が置かれる、ある種論理的な音色に感じた。
尺八はいちばん、息そのものに近いように感じる。風の音とか、勢いがあって、力強さを感じる機会が多かったなあ。
胡弓は、とても不思議な感じがする。演奏姿がヴァイオリンのような異国情緒を感じるからかな、エッセンスがひとつではないような、不思議な感じ。
さあお次の見出しはこちら。
🌺琉球古典音楽「伊集早作田節(いじゅはいちくてんぶし)」
三線と笛と太鼓の3人の演奏者の方によって演奏された。(三線とは三弦の弦楽器)
まず、後述するアイヌもそうだけれど、日本博、と題して琉球王国の伝統芸能があってくれてよかった。着ていらっしゃるのがおそらく琉球王国の装束で、着物とは違う薄くてやわからそうな涼しげな生地だったのも印象的だった。三線でどこか切ない歌を歌っていて、高く伸びる笛の音が一層切なげだった。(あと、全然関係ないけど、太鼓が奏者の方の前と横に置いてあって二刀流でかっこいいなと思った)
次は舞踊の2つ。
🕊アイヌ古式舞踊「鶴の踊り」
🕊日本舞踊「鷺娘(さぎむすめ)」
舞踊がどちらも鳥のモチーフになったのは偶然なんだろうか、それとも日本の舞踊には鳥モチーフが多いのかな。わたしは、彼らが鳥を好きだったのだと思う。ただ「鳥」と呼ぶのでなく「鶴」「鷺」と名付けて、(鷺娘の方は作中で人に擬態するほど)、彼らは自分の周りで生きる鳥に対して、詳しかった=解像度が高かったのだろうな、と思う。
日本舞踊は、三度の衣装替えが見事だった、それぞれ全く違って見える。やはり最終形態が好きだな、美しいお着物(とくに袖が美しい)に反して弱っている鷺娘の弱々しい羽ばたき。人が舞っているけれど、それは動物の羽ばたきだと心が思った。
アイヌ古典舞踊は4人が鶴に扮して舞っていらっしゃったが、それぞれ衣装の模様が違った。ただ鶴、という概念を舞っているのではなくて、四羽それぞれ個性を兼ね備えた鶴を舞っているんだろうなあと思った。(話はずれるが国立アイヌ民族博物館並びにウポポイ(https://nam.go.jp/)の設立おめでとうございます!アイヌ文化に触れるために、絶対行きたい!)
そろそろ終わりに近づいてきたかな。次は、
😶能「羽衣(はごろも)」
主演や助演で舞台で舞い踊る演者さんと、楽器の担当者さんと、地の文や脇役を演じる方の3種類の役職でつくりあげられる歌舞劇。
演者さんが面(いわゆる能面)をかぶるので無機質に見える気もするけれど、羽衣を落としてしまった天人が美しいことはありありとわかった。演者さんのお顔がVTRで流れたのだけど、面と衣装を纏った姿は全く違って見えたなあ。
🗣合唱「越天楽~花(えてんらく~はな)」
合唱、馴染みの表現形態だ。とくに滝廉太郎さんの「さくら」は教科書にも載っていた。ここまで脈々と受け継がれてきた伝統芸能を続けてみて、ここで合唱が聴けて、私たちも文化の流れの一部にあることを強く感じたなあ。美しい桜の花や朧月を愛でる術をわたしも持っているのだと思い出した。ソプラノからバリトンまで、それぞれのパートのカラーがあって、合唱はおもしろい。
🐅歌舞伎「石橋(しゃっきょう)」
ヨッマッテマシタ! 歌・舞・伎、つまり、歌う・舞う・演じるの三要素の揃った芸能で、今回の演目は獅子の精の舞だった。舞が中心であるのかと思っていたが、強く感じたのは「伎」だった。人ならざるものという神聖さと、獣たりという動物だと納得する動きの数々。長い髪も振り回すのはやっぱり圧巻だった。舞台でみたいなあと強く思う。
長らく語ってきて伝統芸能に想いを馳せた。ここで、名前の出ていないものがひとつ、「2.5次元ミュージカル ミュージカル『刀剣乱舞』」がある。彼らはいつも通り素晴らしかった。金打(刀を打ち合って約束の印とする)が多く組み込まれていて、彼らの「われてもすゑに 逢はむとぞ思ふ」の誓いを繰り返していたように感じた。
わたしは他のどの伝統芸能より、この2.5次元ミュージカルに詳しい。やはり、みえているものの解像度の違いを大きく感じた。反対にいうと興味を持って調べて知っていくと、もっともっとそれぞれの伝統芸能のすばらしさをもっとあざやかに理解ができるのだろう、と強く思う。それはここに刀ミュがあったからだろう。文化を知る、その道の入り口に、今も生きる芸能があることが嬉しいな、誇らしい。
さあ、記述が終わったぞ、だれかと、それぞれ何がみえたか、何に心を惹かれたか、を語り合いたいな。そうやってゆっくりと伝統芸能の世界にこれからも入っていこうと思う。まずは、お杵さんをもう一度みておこうかな。(おすすめの伝統芸能ありましたらいつでも教えてください💪)
ではまた!次の記事でお会いしましょう!👋
行きたい博物館展示一覧✨
ここに行きたい博物館展示を随時更新していきます!行きたい展示に行けたら、ここからは消えてレポになってどこかにあがってるはず!(最新更新1/12)
特別展『ミイラ』-2/24
科博は『アンデス文明展』以来2回目。時代、地域が広い展示は高校止まりの世界史の知識を総動員して理解するのが楽しいんだなあ
https://www.tbs.co.jp/miira2019/
『江戸ものづくり列伝』2/8-4/5
大きいものも好きだけど、小物に繊細な細工がされてるのをみるのがほんと〜に大好きなので楽しみ!
Re:はじめまして
博物館アカウントを作ったので、今日からこのブログが演劇アカウントと博物館アカウントの共有になります。
フィールドは違えど、また再び、行って行きたくって行けなくってして、賑やかに楽しんでいこうと思います!
わたしと2.5とDVDと〇〇〇〇〇〇
今日は、ある2.5次元舞台のチケットの発売日だった。かなり人気の演目で、わたしも10分ほど前からスマホの前で待機していた。
結果、チケットはものの3分で売り切れ、わたしはチケットをご用意していただくことができなかった。残念。まあでも2.5ってこんなもんだよなとも思う。
わたしは最近2.5にはまっている。もとから芝居は好きだが、2.5は芝居のかける魔法の魔力が芝居の中でもとりわけ強いように感じるから好きだ。もちろんストレートもミュージカルも小劇場も好きだ。わたしを知らないところへ連れて行ってくれる。その上で、2.5というのはより非日常へ連れて行ってくれるのでは、と思っている。思っているのだ。
というのも、思っているだけなのだ。わたしは実は2.5を生で観たことがない。わたしが観たのはDVDだけだ。
2.5の中でもかなり有名な三作。左から
舞台 黒子のバスケ OVER-DRIVE
ミュージカル 刀剣乱舞〜三百年の子守唄〜
舞台 刀剣乱舞 虚伝 燃ゆる本能寺〜再演〜
である。
もともと2次元に詳しくない、というかむしろ疎いわたしが2.5に手を出したのは、中屋敷法仁先生が演出をしていらっしゃると知ったからだ。高校の時からほんのり憧れていた中屋敷先生が手掛けられてるということで気になった結果、DVDを購入した(黒ステ:左のやつ)。そこから、黒ステに出ていた俳優さんのうち気になる方ができ、刀ミュ(真ん中のやつ)を購入、そして、同コンテンツつながりで興味を惹かれ、刀ステ(右の)を購入と相成った。
今まで、劇場に足を運ばずDVDを購入していただけだったのにはいくらか理由がある。
まず、黒ステの時点では、わたしがその場に行って楽しめるのかどうかという不安があった。これは、作品に対する不信ではなく、客層にわたしが含まれないのではという不安である。黒ステを観に行く人は、原作の黒バスのストーリーが好きだったり、キャラクターが好きだったりする人たちがほとんどだろうと思う。そして、彼ら彼女らに満足してもらうために作り手の方々はきっと創意工夫を凝らした。
それを、原作を名前くらいしか知らないわたしが、いくら事前に漫画を読んで予習したとして、ほかの原作好きの方たちと同じ熱量で楽しめるのか、と考えた時に、劇場にはいけないな、と思ってしまった。
しかし、その憂いはほぼ必要がなかったと思う。もちろん、原作に愛を持ってわたしがまったく気にも止めなかった役者の動作が原作ファンの方をこころを鷲掴みにしたりはしていたと思う。それに気づけないのはもう仕方がないが、それを知らずとも舞台の上は120%だった。人間ドラマだったし、熱い想いだったし、バスケの試合だった。その舞台の産む時間、空気、熱が好きで、そこには2.5だからこそだせる(2次元直通の)青春があって、劇場で観たかったと思った。(そして私のような2次元初心者へのフォローもしっかりあった。)
こうやって、2.5への不安が1つ減ったところで次である。
次は刀ミュの時点での話だ。これは、一部の2.5に限った話なのだが、芝居の中にアイドルのようなライブが組み込まれている2.5がこの世にいくつかある。そのうちの1つが刀ミュであった。刀ミュは一部でミュージカル芝居をし、二部で歌って踊るライブをする。(2.5に馴染みのない方にはわかりにくいかも知れないが、テレビドラマのオープニングのように、役者がキャラクターの演技をしたまま踊るというイメージだと思っていただければ。)
その上、ライブではうちわにメッセージを書いて掲げたり(バーンして!など)、ペンライトを振ったりする。
このライブでは、"推しにファンサをしてもらえる"="好きなキャラクターにファンサービス(投げキスなど)をしてもらえる"というキャラクターファンには言葉にできないほど幸せなことが起こる。また、好きなキャラクターがいきいきと歌って踊っていることもキャラクターファンはぐっとくるものがある、と。
ただ、このライブ中には原作や舞台上でのストーリーがないのだ。いや、歌詞などはストーリーを想起させるものもあるけれど、ライブ中にはキャラクターたちは葛藤したり喧嘩をしたりしないのだ。そもそも殆ど喋らないでずっと歌って踊っている。
この、"ライブ"の存在にわたしは最初ほんとうに驚いた。芝居の中に、ストーリーがない時間を楽しむという発想が目からうろこだった。そこにあるのはストーリーでなく、キャラクターだ。
そこでわたしは改めて、キャラクターを愛すということについて考えた。2次元が好きな方たちは、キャラクターのグッズを購入したり、ゲームだとキャラクターを重宝したりして、キャラクターを愛でる。そこにストーリーは関係している場合としていない場合がある。ストーリーから少し距離を置いたとして、そのキャラクターの見た目、声、性格、仕草などを愛でることには変わりないということである。だからこそ"ライブ"が成り立つし、そもそも原作を舞台化するとなった時に役者がキャラクターとして(見た目、声、仕草など)信じられるかどうかが大きな出発点になっている。
"キャラクター"という存在の大きさをわたしはこの時はじめて知った。今までそういう文化に触れてこなかったぶん、ほんとうに新鮮に感じた。
ここで話を戻すと、わたしが劇場に足を運べなかったのは、キャラクターにまっすぐ愛を捧げるほどコンテンツに詳しくなかったからである。ペンライトやうちわを用意するだけの愛がある人が客席に座るべきだと思った。
まあしかし、この懸念も意外とすぐに溶けていった。というのも、わたしがコンテンツにハマったからである。
2.5というのは2次元好きの方を舞台という別のカルチャーに呼ぶことが大きな目的だろうが、わたしはただの舞台好きだったのが、2.5を通してゲームの味を知る、という変わった道を辿ることになった。
そんな風にしてわたしのスマホの中にはアプリ「刀剣乱舞-ONLINE- Pocket」がはいってるわけで。好きなキャラクターもたくさんできた。一番好きなキャラクターはまだ2.5には登場していないが、もし登場したら、わたしは頑張ってチケットを取って、ブンブンとペンライトを振るかもしれないと思った。
さて、実はまだ劇場に行けなかった理由の話が続いていた。この話はむしろ積極的にDVDを購入するという話かもしれない。
次は刀ステの話である。刀ステはわたしがDVDを買った時点で、シリーズ物の次作が決まっていた。それにもかかわらず、わたしはシリーズの一作目のDVDを購入したのだ。(ここまで触れてこなかったが、2.5にはシリーズ物が多い。黒ステ、刀ミュ、刀ステは全てシリーズ物である。)
それはなぜか、ずばり、
キャラクターで選んだからだ。
シリーズを通して全作に登場するキャラクターもいれば、一作しか登場しないのもいる。わたしが購入した一作目にはわたしのお気に入りのキャラクターが4人も出ていて(一作目以外は2人しかでない)、さらに彼ら4人がメインの作品だった。
つまり、わたしが2.5に求めるものがここで変わった。原作を詳しく知ったことで、「コンテンツの世界を舞台化を観たい(できれば生で)」という欲求が、「好きなキャラクターたちが悩みながら生きる姿を観たい(DVDでいいから)」に越されたいうことだ。
これは、2.5の観客としてはある意味健全なことかもしれない。コンテンツが好きで、そのコンテンツの中で好きなキャラクターがよく出ている作品、しかもそれは上演がもう終わってしまっていた。それならば、DVDで堪能しようということになる。
しかし、"舞台"が好きなわたしがそれに首をかしげるのだ。もともと"舞台"という非日常に魅せられて、より非日常で大胆な時間を過ごすために詳しくもない2.5に手を出し始めたのではないか、と。
ここでDVD如何という話になるが、そもそも舞台のDVDとはどういう位置付けだろう。わたしの持っている芝居のDVDは今のところ、先に提示した3枚の2.5のDVDと、テレビで放映されていた芝居(『青春舞台』など)をダビングしたもの、あとは柴幸男さんの舞台『わが星』である。『わが星』は人におすすめだからと見せてもらい、めちゃくちゃハマってしまった自分でも購入したDVDである。
『青春舞台』・『わが星』・黒ステ・刀ミュは共通して、「既に上演が終わっており、再演の見込みもない」作品たちである。わたしは、それらの作品について生で観る機会を永遠に失って、それでも(生の舞台で得たよりも興奮は薄まるが)DVDという形で堪能をしたいという思いから購入に至った。それらは基本的に、「なんでわたしはリアルタイムで知らなかったんだ、生で観たかった」という後悔があってのことだ。
それと反対の体験をしたこともある。わたしは今年の2月に『Shakespeare's R&J』という芝居を観た。
それについては、
http://gzgzen.hatenablog.jp/entry/2018/02/04/231208
ここで語り尽くしたのでもう一度語ることはしないが、わたしにとってとても大きな体験だった。そして、公演が終わっていくらか経ってから、『Shakespeare's R&J』のDVDが販売されるという情報がアナウンスされた。わたしは少し迷ったが結局買わなかった。あんな濃厚な時間はもう過ごせないと思ったからだ。完全に劇場の魔法にかけられていた時間だったから、むしろ、もう一度客観的な見直すのは嫌かもしれないとも思った。生で観て一生忘れられないような芝居だったからこそ、DVDを購入しなかった例だ。
さて、その上で刀ステの話だ。刀ステは先ほど言ったようにシリーズ物であり、わたしにとってその世界観を生で浴びることは次回作でも可能だった。それでも好きな4人が苦しみを超え生きる姿が観たかった。実際それをDVDで観て、心を打たれて、それに、キャラクターの細かな仕草にも感動ができた。作り込まれた重箱の隅まで堪能するなら、DVDという媒体はとてもよい仕事をする。撮影の技術も日々進歩していて、生で観ると豆粒のようなサイズの顔が、アップで映されたりする。わたしは、キャラクターの1ファンとして楽しんだ。楽しんだ。こうやって楽しめることが嬉しいとも思った。
また、先ほどから比較対象としてでてきている「次回作」だが、きちんと情報を見ていなかったため即座に売り切れ、数度当日券にも並んでみたが、ことごとく抽選が外れて悲しみの帰宅をした。ある種自業自得なので仕方がない。ただ1芝居好きとして、演劇の公演が何度も抽選をしてまで当たらない人がいるほど求められているのは嬉しいなんてことも思う。何様だよって感じだが。
わたしにとっての刀ステはこんな感じだった。ちなみにさっきから次回作次回作言っているが、当然もう終わっていて、さらにこれがシリーズ最終話だったようだ。わたしは刀ステの世界を生で触れずに終わってしまった。それは悔しいな、、、
そうだ、さっきからずっとわたしは劇場に足を運ばなかった、とまるで自分の意思で行ってないようだが、(実際だいぶそうなのだが、)それよりも、2.5は行きたくても行けないことがままある。上に書いた刀ステ然り、刀ミュもチケット争奪戦は熾烈なものらしい。そして、今まで機会がなく触れてこなかったが、2.5の原作以外のもうひとつの目玉は、役者さんたちである。彼らはキャラクターを愛する方たちに寄り添い、繊細な役作りをして、大胆に熱量を持って演じる。そんな魅力的な役者さんたちにもファンの方がいて、市場の一部となる。そう、だから、コンテンツがビッグタイトルであるからチケットが取れないうえに、役者さんたちのファンの方も芝居に詰めかけるから、やっぱりチケットは争奪戦となる。キャラクターのファンも役者さんのファンも確固としたお金を使う相手、がいるから、迷いがない。それに応えてチケットの販売も役者さん先行と原作のなんらかからの先行があったりする。
そうだ、今日だって、わたしが落ちたチケットは、一般販売だ。俳優さんの先行とか、アニメとコラボの先行とかが終わって、今日。
今回落ちたこの芝居は、わたしは原作は詳しくはない。機会があったのでアニメを1話だけ観ただけだ。この芝居は原作が話題になっていて、知名度も高く、この芝居がはじめての2.5だという人が多そうだ。役者さんも期待が高まる布陣になっていて、実際わたしもこの芝居のことを役者さんのツイッターで知った。
ただ、わたしが興味を惹かれたのは上にあるようなことじゃなくて。
"劇場を彼らの住む世界に見立て、観客を住人の一人として扱い、劇場の隅々まで使ってキャラクターが生きる"
ということをプロデューサーさんがおっしゃっていて。
それを聞いて、もう、行くしかねえなって思った。その時間を、体験を、本当に創れたら、この上なく満たされるだろう。
2.5が非日常なのは、2次元が非日常だからだと思っていて、
舞台が非日常なのは、劇場に行くことが非日常だからでもあると思っていて、
そこにしかいない魅力的なキャラクターと、そこでしかできない体験をすること。
その時間はほんとうに夢のように過ぎるだろう。
そんな作品がこの世にあって、それに焦がれている。
、、、あー、なんでチケット取れなかった作品のこと熱く語ってんだよ。行きてえな行きてえよ。あ、一応、当日券チャレンジしようと思ってるんで、一応、まだ、諦めたわけでは、ない、
でも、もし行けなかったらわたしはDVDを買うだろうか。生の体験に焦がれたのに。
へい、語った語った。ここまで読んでいただき、ありがとうございました!では、最後に、
わたしの今日落ちた芝居は、
体内活劇『はたらく細胞』
https://hataraku-saibou.com/butai/
です!
みなさんにもおもしろい芝居を逃した感覚の道連れになってもらって、今日はこの辺で。また会う日まで。
映画『グレイテスト・ショーマン』
やあやあこんにちは、げんです。
ちょっと最近は涼しくなったかな、なんて、今までの異常な暑さで感覚が麻痺した八月半ばです。
今日は、夏休みにいっぱい映画をみようという、
"わたし的夏休み課題映画"
二作目です。
今回は!
『グレイテスト・ショーマン』!!
いえーい!どんどんぱふぱふ〜
少し前に日本でもかなり流行りましたよね。
流行の波に遅れがちなわたしは、「流行ってるなー」と思いながら、一度もみてませんでした。
そんなわたしが突然この映画をみることになったのは、
わたしの母とその友人(この映画5回ぐらいみてる)がその子供らを呼んで、なんと、鑑賞会を開くことに決めたからです。
好きなことを布教するこの熱意、すごい。
そんな感じで、みんなでカラオケボックスに集まって、鑑賞会をしました。(最近は映像鑑賞ができるカラオケボックスがあるらしい、すごい。)
さて、映画『グレイテスト・ショーマン』
この映画自体が、1つのショーだと感じました。
グレイテストな、ショー、
最高の、エンターテイメント。
映画の間はショーが続いているから、立ち止まっている暇はない。
みる前は、主人公のサクセスストーリーだと思っていて、素晴らしいショーの成功までの努力などが描かれると思ってたけど、そうではなくて、
一度「成功した男」が周りにもまれて、生きて学ぶ日々でした。
ステージ上で次々と演目が移り変わるように、
男(とその仲間たち)の上で、人生の波が次々とやってきて、それが大きくうなる。
まさに、これが波瀾万丈な人生というものかっ。
また、エンターテイナーたちのことを少し。
エンターテイナーの彼らは、ショーが彼らのホームだと言いました。ショーは彼らにとってのはじめての心のよりどころ。
そこで、「This is ME!!」、
これがわたしだ、わたしはここで生きていると、
パフォーマンスする彼らの、
感情豊かで個性豊かでありながら、一様に幸せそうな顔。
あの表情たちをわたしはきっと忘れられないと思います。
観終わった後、みんなで「This is the greatest show!!」と歌いました。わたしたちもきっと彼らのような表情をしていたのかもしれません。それはとても幸せなことだなあ。
幸せな時間を過ごしました。
次は何を観ましょうね。
映画『ウエストサイドストーリー』
こんばんは、げんです。
バタバタした学期末が終わり、やっとこさ夏休みに入りまして、
せっかく時間ができたのだから、なにかをしようと思って、
まずは、映画鑑賞からはじめてみました。
ということで、"わたし的夏休み課題映画"
一作目は『ウエストサイドストーリー』✳︎
とっても有名な作品で、この作品のパロディの作品を何作かみたことあるのに、本物はみたことねえなって思ってみてみました。
みる前に知ってたことはこの作品がシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を意識してつくられてるってことだけでした。
当時のニューヨークのピリッと乾燥した風が、まだ荒い画質に乗って、届いてきました。
熱い愛は、あまりよくわからなくて、少しわたしには早かったかもしれないと思ったけれど、
片方だけが亡くなるという結末は愛し合った2人にとって一番の悲劇だと思いました。
ロミジュリでは2人とも死んで、でもそれは、お互いのところに行けるっていう、彼らにとって「よいこと」もあったけれど、生き残った人はこれからもそれを覚えて生きていくんだなあと…。
あと、ロミジュリとの比較でいうと牧師ポジションが飲み屋のマスターってすげえ滾るなあと思いました。
乾いた風が観終わってからもざわざわ騒ぎます。
(観終わってから勢いで書いてるので間違いなどあればごめんなさい)
さて、夏休みはこれからも続きます。次はなにを観ましょうねえ。
「Shakespeare's R&J」を観た!
こんばんは、げんです。
舞台「Shakespeare's R&J」を観てきました。
このお芝居は↓
厳格なカソリックの全寮制男子校の寄宿舎で暮らしている4人の学生。
彼らは夜になるとこっそりベッドから抜け出す。
読むことを禁じられたシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』のリーディングが始まる。
「さあ、夜の世界の幕開けだ!」
秘密の遊戯が始まるうちに、見つかってしまうのではないかという不安に怯えつつ、彼らはこの遊びをやめることができない。
そして彼らは4人だけで配役を分け、この芝居に熱中して演じていくうちに・・。
「ゆうべ夢をみた。夢を見た…夢を見た…」
(公演ホームページより)
4人の男子学生がロミジュリを演じる遊びをしているうちに、ゆめとうつつが混ざって行くというもの。
このお芝居を知ったのは昨日です。ある演劇ライターさんがこの芝居を観た感想をつぶやいてらっしゃったのを読んで、読んだだけで興奮して、とんでもない演劇だと思って、どうしても行かなきゃいけないと思いました。ホームページみたら今日が千穐楽だったので、当日券で半立ち見で観てきました。
「ロミオとジュリエット」の台詞は正直難解で、必死に聞きました。一生懸命観てました。そうだった、はずなんですけど、途中からだらだら涙が出できました。でもそこからも舞台上で起こってることが全てで、私がそれに対してなにか思うことができなかったというか、感想を抱く余地がなかったというか、何が起こっているのかを必死で観てました。
泣き始めて少し経った頃に、「人が人を想っている」ことに気づいて、いや、ロミオとジュリエットが恋し合ってるのはストーリーとしてわかってたんですけど、それがああ彼らは愛し合ってるんだってじわじわ体感して、(みているわたしもそうだったし、「ロミジュリを演じている男子高校生」たちもいつのまにか「ロミオ」や「ジュリエット」になっていって愛し合ってて、)わたしはただそのことでいっぱいいっぱいになって泣いてました。
このお芝居は、「男子高校生である彼ら」の世界線と「ロミオとジュリエット」の世界線が絶妙に共存してるんですが、途中から「ロミオとジュリエット」の世界が「男子高校生」の世界を呑み込んでいくんですね。その中で、「男子高校生」側を思い出させるのが、時を打つ鐘(チャイム)です。チャイムが鳴るたびに、彼らは少し我にかえるんです。チャイムがなるたびに"終わり"が近づいていることに気づき、それでも我にかえりきれないところまで来てしまっていることも気づいて、いや、気づくと言えるほど理性的ではないかもしれない、、、なんというかとにかく、チャイムというのはそういう役割をしてたんですね。
わたしは、チャイムが何度もなり芝居がラストに近づいてくるにつれて、(終わらないで!)と思いました。(朝が来て彼らの遊戯が)終わらないで!「夢を見た」と言って夢にしてしまわないで!この芝居がどうかどうか終わらないで!
「ロミオとジュリエット」が悲劇なのはわかっていることなので、彼らの愛が悲劇の死で終わってほしくなかったし、「男子高校生」達が「ロミオとジュリエット」の世界で全身全霊で生きているのにそれがただの一夜のお遊びで終わってほしくなかったし、そして、たぶん、今自分が芝居を観て心がいっぱいになっている時間、も終わってほしくなかったんだろうなあと思います。
観後感は、(終わってしまった)でした。彼らが終わってしまった。
そして、終わりました。わたしが必死で観る時間が終わりました。とんでもない観劇体験だったことだけがわかるけど、芝居自体のことは咀嚼することがまだできないです。
できなかったです。
実際咀嚼に一ヶ月半かかりました。一ヶ月半たってやっと、意味の通る文章を吐き出せるだけ咀嚼できました。そうして振り返ってみて思うのは、この芝居はどこまでも「演劇」であったというか、「演劇」でしかできない体験を頭から浴びたというか、(演劇ってなんでもありでその存在が揺らぐことが多い気がするんですが)誰がなんと言おうと演劇だ!、としっかり立っているということです。
最終的には、いい演劇を観た!って一言に集約できるのかもしれません。貴重な体験でした、いってよかった!
よし!おわり!ではまたね!
🗒テクニカルメモ
舞台美術と音響と照明が幻想的でした。ピアノの単音とか、ひし形の光とか、「シェイクスピアの世界」はやっぱり特別だなあって。きっとわたしの窺い知れないようなところまで精密に空間がつくってあって、一定の張り詰めた緊張感の造り手はテクニカルだと思います。
ロミオ役とジュリエット役はほぼ固定なんですが、後の二人が何役もされるんですね。その時にからだつきが一瞬で変わっていました。彼らは皆青年のはずなのに、おばあちゃんや神父さんの体になっていました。神父さんの小川ゲンさんが気になる。